【江戸時代の天才絵師】伊藤若冲の世界

1月2日にNHKで放送された「ライジング若冲〜天才かく覚醒せり〜」。
江戸時代の天才絵師・伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)の謎に包まれた実像を描いたドラマです。
綿密な考証と大胆な仮説に基づいた作品ということもあり、興味深く鑑賞しました。
1716年、青物問屋に生まれた若冲は、40歳で家督を弟に譲って画家に専念すると、
その才能を一気に開花させました。
その後、85歳で没するまでに、若冲は数々の傑出した作品を残しました。
目次
無学、無趣味、無芸だった若冲
1716年、若冲は京都の錦小路高倉の青物問屋「桝源(ますげん)」の長男として生まれました。
若冲は幼い頃から学問が嫌いで、おまけに無趣味、無芸の男だったといわれています。
父親が42歳で亡くなったため、四代目源左衛門として、実家の青物問屋を継ぐことになります。
のちに若冲と親しく交流するようになった相国寺の大典顕常(だいてんけんじょう)は、
「ほかに得意な技とてないが、絵を描くことだけは好きだった」
と書物に記しています。
若冲は、大阪の画家である大岡春卜(おおおかしゅんぼく)から、狩野派の技法を学びます。
その後、京都中の寺院を訪れ、蔵に秘蔵されている中国の宋・元画を出してもらい、それらを模写し続けます。
模写した数は1000本にも及んだといいます。
そしてさらに若冲は、模写ではなく、自分が見ることのできる「物」を描けばいいのではないかと思うようになるのです。
それから、若冲は鶏に眼をつけ、自分の家の中庭に数十羽の鶏を放し飼いにして、その瞬時々々のすがたを観察するようになります。
40歳から本格的に画業に専念した若冲
若冲が40歳のころ、次弟に家督を譲り、画業に専念するようになります。
彼の才能をいち早く認めていた相国寺の大典顕常がパトロンとして生涯彼を支えます。
そして、42歳から「動植綵絵(どうしょくさいえ)」の制作に取りかかります。
ドラマの中では、若冲と大典の友情を超越したような関係がひとつの見どころとして描かれています。
若冲の最高傑作ともいわれる「動植綵絵」三十幅
一時期、大岡春卜から絵を描く上での基礎的知識を学んだものの、ほとんど独学の若冲には、
正式に学んだ者とは違った絵画感覚がありました。
描きたい対象を描きたいように描いた「動植綵絵」は、
生き物の躍動感、美しさ、息づかいなど、森羅万象を知り尽くしたかのような若冲の審美眼が感じられます。
「動植綵絵」三十幅は、相国寺に寄進されますが、のちに皇室に献上されます。
※参考資料:別冊宝島2392 若冲 名宝プライスコレクションと花鳥風月(宝島社)
まとめ
ドラマをきっかけに若冲の生涯を知り、様々な背景を重ねて改めて作品を観ることで、
天才ということばだけでは言いあらわせない、若冲の絵画への探究心や情熱を感じました。
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